『英語日記BOY』 という本を
今朝活時間に読んでいます。
本屋さんでぶらぶらしているときに
引っかかった本。
見つけてしまった感のあるやつ。
英語をちゃんと話せるようになりたい
原書で本を読めるようになりたい
字幕なしで映画やドラマを
見られるようになりたい
なったからどう、ということでも
ないっちゃないんだけど。
っていうか、英語は
使えるようになることより
使えるようになった英語で
何をするかの方が大事って
そのことは英文科を卒業してから
ずっと肝に命じてるくせに。
明確な目標がないから
ちゃんと向き合えてないことも
よくわかってるくせに。
まだ英語がまともに扱えないことに
コンプレックスを持ってるのやなと
改めて気がつきます。
アメリカ人の女性宣教師の方が
創設なさった学校に
中学から通っておりました。
今から思えば
英語の授業のコマ数も半端なかった。
文法、発音はもちろん文学、
シェイクピア、マザーグース
英語における古文みたいなものから
歌の歌詞、バイブル、歴史と細分化され
語学でありながら文化まで幅広く
とにかく何から何まで全部英語。
その時間中
一切日本語は使ってはいけないという
特異な授業を10年受け続けました。
意味がわかるわからないに関わらず
先生がアメリカ人だろうが
インド人だろうが日本人だろうが
説明も雑談も全て英語で
どんどん授業が進んでいきます。
置いていかれる感半端ない。
英語に触れる一番最初から
日本語は排除されているので
英語と意味が瞬時に結びつく回路を
作ってもらったから
聞き取れるし、意味もわかるし
そこそこ話すことも読むこともできたけど
それをきっちり真面目にやってた
優秀な人たちと
適当にやってた人間との差は
高校卒業時には相当大きなものとなり
ほんとね、劣等生でした。ずっと。
周りが優秀過ぎるねん、とか
どんなに言い訳を重ねてみても
ちゃんと勉強しなかったのは自分。
そのことがいまだに惨めなこととして
しくしく痛んでいるのです。
こういうのは、いつまでも
消えないもんやなぁ。
思えば死に物狂いで
英語で卒論を書いた
大学卒業時がおそらく
英語力のピークでした。
先生に入れられた赤ペンで
真っ赤になって帰ってきた
みっともない卒論。
それでもどうにかこうにか卒業は
させてもらったのですけれど
それも思い出したくない
惨めな過去のひとつ。
要するに、英語ができないことが
コンプレックスになってるので
それをどうにかしたいと思ってる
ということやな、と
こうやって書いてて
なんか整理が出来ましたわ。
広がってるはずの外の世界に
手を伸ばせないことに
劣等感をまだ持ってるのやな。
数学ができないことなんか
別になんとも思わないのに
英語だけはなぜでしょう。謎。
海外ドラマを浴びるように見てるので
今リスニングだけは随分ましになって
聞こえるようになってきましたけれど
自分の口から英語の文章を出すのは
まず無理な気がする。
翻訳こんにゃく的なものが
現実化しているから
語学はもう必要なくなる
なんて説もありますが
直接話せる人 と そうでない人の間には
やはり大きな違いが
あるに違いないと思ってます。
自分の耳で聞きたいし
自分の口で話したいのだ。
この本には
英語を独学でものにして
海外で仕事をするまでになった男の子の
その手法と経緯が描かれていて
とても興味深く感動的。
明確に英語でしたいことがまずあり、
そこに向かってまっしぐらに
努力を続けた日々の工夫が
惜しげもなく展開されています。
ここにも小さな習慣、
努力の積み重ねが
大きな力になる好例が! と
違うところにも食いつきながら
すごいなー なるほどなーとまた
若いパワーに
圧倒されながら読んでいます。
真似してみたいこともたくさん。
とはいえ
真剣に取り組む本業がある人間が
とても片手間に全部真似できるものではなく
また1日24時間の壁が立ちはだかります。
この本を読むことでまた
自分のやり方を
作り出して、編み出して、
毎日努力を繰り返すことで
成果を得ることはできるのだと
思うことができました。
ほんと、地道な努力しかない。
とても自分には出来ない、と
諦めるのではなくて
どうにかこうにかごまかしながらでも
続けられる、上達するような仕組みを
考えていくことが
やっぱり大事なんだろうな。
英語も、まだ諦めずに
取り組むテーマに入れました。
少しずつでもやっていこう。
そんなことばっかりやな。
あぁ忙しいわ。毎日。笑
本日もお越しいただき
ありがとうございます。
今も最前線で戦ってくださっている
世界中の医療従事者の皆様に
心からの感謝を!